dramatic life 面白きなきこの世を面白く

仕事 恋愛 趣味 このつまらない世の中をどう面白く生きるかをテーマに様々な切り口から想いを綴ります。

『生きるぼくら』原田マハ 読書レビュー

父が亡くなりもうすぐ1か月経ちます。
家も母も少し落ち着きを取り戻したけど、なんとなく体の芯が重いような気になるのは実際に体が疲れているからなのか、心の問題なのかはわからないけど。


よく映画やドラマで亡くなった家族に毎朝線香をあげて
「お父さん、行ってきます!」
「お父さん、ただいま!」
とか、本当にやるもの?(笑)とか思ってたけど、
今は、、普通に自分がやってるのも少し面白い。


まだまだ心は立ち止まっていたいけど、時間の流れは容赦なく僕らを押し流していくのだと1週間ぶりに出勤して改めて実感している。


そんな中であった本がこの『生きるぼくら』である。
両親が離婚し、学生時代に酷いいじめを受けた主人公は引きこもりとなり、毎日コンビニのおにぎりを流し込むように食べ、1日中ネットの世界で生きていたのだが、、


ある日、わずかなお金を残してお母さんが出て行ってしまったのだ。


お母さんが残していった年賀状を頼りに、蓼科のおばあちゃんの家に向かうと、予想を覆す事態が待っていたのだった。


主人公は人の温かさに触れ、大きく人生が変わっていくのだけど。。


父を失ったばかりの僕にはそうした人との絆や温かさが心の芯に触れ、、、
読んでるうちに、何度もいつの間にか涙を流していた。。。


「生きる」ってことがいかに大変で素晴らしいことか。
人の思いや努力が奇跡を起こす。


まぁ、イワンコフ曰く(ワンピースネタだけど(笑))めったに起きないから奇跡なわけで、、


「奇跡なめんじゃねぇよ!」
と思いつつも素直に感動した。おススメです。

再会

父の葬儀も無事に終わり、あとはいろんな後処理を残すのみとなりました。
父はお骨になってしまいました。
喪主として、なんとか保っていた理性も喪主の挨拶で考えていた挨拶を読み上げるところで(前回の日記のような内容)崩壊し泣き崩れながらもなんとか最後まで終えることができました。。。いい大人なのに情けない(笑)


父の実家は九州の宮崎で、うちの父は7人兄弟の5番目でした。
遠く埼玉の地まで父の姉やら兄やらが全員来てくれて、、、ありがたいなぁと心から感謝しました。みんな泣いてくれて、、、


宮崎は遠く、僕は部活やら仕事やら忙しく、今まで何度かしか会ったことがない叔父や叔母なのだけど、血のつながりは水よりも濃いことを実感しました。僕の顔が親父の若いころに似ているのか、僕の顔を見るなり泣き出したりして(笑)


みんなヨイヨイなのに、本当によく来てくれたなぁと感謝の気持ちでいっぱいです。中には孫に連れてきてもらってる方や従妹に連れてて来てもらってる方も多く、なんだか借りができてしまったような心境です。この人たちが元気なうちに、宮崎や福岡などに恩返しの旅がしたいと考えるようになりました。


「お父さん、やっぱりみんなから愛されてたんだねぇ。」


たくさんの人が弔問に来てくれたこと。
年配の人の葬儀にも関わらず、みんな泣いてくれていたこと。
僕の職場の方もたくさん見えてくれて、ありがたいなぁと思いつつ、これも父の人柄の表れなのかと感じました。


まぁ、僕が一番泣いちゃってたんですが(笑)


まったく、、、父は幸せな男です。
親族や母だけでなく、男の息子からもこんなに慕われて(笑)


父は嫡男ではないので、お墓や仏壇なども、ここで準備しています。
墓や仏壇などは父のためであるのだけど、
母や僕など、生きている人のためにあるといいます。


僕ら遺族が満足できる形でできたらなぁと考えています。



ところで、半年以上ぶりにもしかしたら、彼女と再会できるかもしれません。
ちょいちょいってか、たまには連絡は取りあっていたのだけど、
僕が東京に行く用事ができたので、会えないかなぁと思って連絡してみたの。
彼女と初めて会った街で、彼女の顔が見れるかもしれない。


多くは期待しないように努力してるけど、
彼女の元気な顔が見たい。
僕は彼女の顔を見て、元気になりたい(いや、心が、、、だよ?(笑))


僕は別れたつもりはないからね?
君が僕の恋人であることは変わらないよ。
良いでしょ?


会えなくても、なかなか連絡が取れなくても
僕の気持ちは変わりません。


僕はずっとずっと君だけが大好きなんです。

親父が永眠いたしました。

お久しぶりです。みなさま、いかがおすごしでしょうか?
心にポッカリと穴が開いてしまったようだとはよく言ったもので
今まで、親父の病気のため一緒に戦ってきたのですが、
今朝永眠いたしましたことで、自分の心をどう持っていけばいいのか
わからなくなってしまい、久しぶりの筆を執ることになりました。


子供のころの僕にとっての父は、『仕事ばかりであまり家庭を顧みない人』という位置付けだった。子供の学校行事には記憶の中では一度も来てもらったこともなかった。
そして、僕は3人兄弟の末っ子として生まれたので、兄たちの動向を見て上手く立ち回るということで、末っ子ならではの要領の良さを生まれ持っていた、、、はずだった。


思春期には子供たちに優しく(甘く)、口下手で兄たちに対して上手く叱ることができない父に失望と軽蔑の目を向けていたことを今はとても後悔している。


しかし、どんなときでも父は子供らを受け入れ、守ってくれる存在だったことは今でこそ身に染みてわかっているのだ。また、父の仕事に対するプライドや家族を守る姿勢は子供のころから尊敬もしていた。


子供のころも、今も、どんな子供であっても変わらぬ優しさで不器用に守ろうとしてくれていた愛情は着実に僕の遺伝子に組み込まれているのだと感じている。


父の病気が発覚した時、悪い冗談だと思った。
今でも下で寝ているように横たわっている父が今にも目を覚ましそうな感覚でもいて、父の死を受け入れられない自分もいる。だから、父に話しかける時も病院でいたときと同じように耳が遠くなった父を案じて耳元ではっきりと話しかけている。


「お父さん、俺来たよ。」
「お父さん、おうちに帰ってきたよ。おかえり。」
「お父さん、みんな来てくれたよ。」


それを見ていた医師はこのようにも話してくれた。
「人は心臓が止まってからも耳は聞こえているんです。だから、よく話しかけてあげてくださいね。」


医師の話を聞く前から、僕はそんなつもりはなかった。ただ、まだ父が生きているのを信じようと張り裂けそうになる心とのバランスをとるため、父に話しかけていたのだけど。


父は安心して眠れたのだろうか。


父は良い人生だったのだろうか。


僕はちゃんと親孝行できたのだろうか。。。。


まだまだ死なないと思ってた。。。
病気の進行もあったから、いずれはとは思っていたのだけど。。。
まだまだ死んでほしくないと思ってた。。。


だから、最後に『ありがとう』を言えなかった。
父にはたくさんのものをもらったのに。。。


届くかわからないけど、僕は父の耳元で何度も言った。
「お父さん、ありがとう。」
「お父さん、いっぱい愛してくれてありがとう。」
「お父さん、家族を守ってくれてありがとう。」


働くばかりで自分に対しては何も望まなかった父は自分の服を買うことも自分から望んだこともなかったんだよね。。癌になってからも、家の片づけをしたり、ちゃんと休んでと何度も言っても父はずっと動いていた。


「お父さん、今度は天国ではゆっくり休むんだよ。」
僕は父の耳元でしっかり話した。


「わかったよ。わかった。」
って声が聞こえそうな気がしたけど、でもきっと「わかった」と口では言っても母や家族の言うことは絶対に聞かないのだろうなぁ。。。