Taboo 性と死を見つめて
なんとなく、世の中では『性と死』に関することは表だって口にすることはタブーとされている。
不思議となぜだろうと考えてしまうのは、おかしいのだろうか?
性とは生に繋がり、死は誰にでも必ず訪れる事柄なのに、忌むべき対象として口に出すことすら憚れる内容として置かれている。
生物は産まれた瞬間から死に向かって歩き始める。長短あれど、誰も死から逃れることはできない。
人は知らないものに対して恐れを抱く。
そりゃそうだ、誰も死を経験した人などいないのだから。
だからこそ、どのように死ぬかが、どのように生きるのかに繋がるのだと思う。
僕は死は怖くない。
まぁ、死にたいとも今は思わないけど(笑)
まだ生きてやりたいことや夢もある。
しかし、死ぬこと自体は、遠い異国の話ではなく、常に隣にあることを自覚するべきだ。
だからこそ、この限られた『今』を精一杯生きることができるのだと思っている。
生を浪費することが、死を侮辱する行為である。
また恋愛において、性つまりセックスはお互いのコミュニケーションにおける切っても切れない行為と言える。
セックスが合う合わないで、相手を選ぶことは果たして悪なのだろうか?
LGBTではないが、性的嗜好の異なる相手を恋愛対象に選ぶことは苦痛以外のなにものでもない。
さらに言えば、すべての肩書きを脱ぎ去り、一番その人の素の部分が垣間見れる行為なのだから、、、、
セックスの合う合わないで相手を選ぶことは、あながち間違いではないのかも知れない。
では、どこからがセックスなのか?
もちろん、、、僕は会った瞬間からセックスしていると思っている(笑)
僕の声や言葉に触れて、あるいは直接手や体にさりげなく触れて、、愛撫は始まっているのだから。。
だから、君は僕といる間、ずっと濡れているのだろう?
さすがに、僕がずっと勃起していたら街を歩いてて恥ずかしいので、脳内勃起だけにしとく(笑)
僕は基本的に体が合わないってことは、ないと思ってる。
どんなに大きくても小さくても、、女性の体は愛する男性の『形』になるのだから。。
そんなことじゃなくて、気遣いだったり、思いやりだったり、、
心の問題である。。
ともかく、、なんとか気をまぎらわそうとしてるが、、、脳内は日曜日のおでん、、、いや、君のことばかり考えてしまう。。
今週もお疲れ様です🎵
ちゃお(笑)
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